もっと早く生まれていたら九龍賽城に行ってみたかった


香港好きなら知らない人はいないであろう、悪名高き九龍賽城。
未だに根強いファンがいるかつての無法地帯。
の跡地に行ってきました。

そこは今やきれいな公園になっていて当時の名残はありません。
名前を九龍賽城公園といいます。

今や緑が生い茂っていて、市民の憩いの場所になっているこの場所は、つい数十年前までカオスでした。

見る影もないですが、中央の建物の中に、当時の様子を説明したパネルがひっそりと残っていました。
1898年、イギリスが清朝から香港島や九龍に隣接する新界、及びランタオ島をはじめとする香港周辺200余りの島嶼部を
99年間租借しました。
九龍城砦は新界地区に所在していましたが、例外として租借地から除外され清の飛び地となりました。
後にイギリスの圧力で清軍・官吏等が排除されてしまい、そこは事実上どこの国の法も及ばない不管理地帯となりました。
中国大陸が中国国民党率いる中華民国となって以降も、九龍賽城はそのまま放置されました。

1941年から1945年の日本軍による香港占領期間中に(香港は日本に占領されていた時期もあったのです。)
近隣の啓徳空港(旧香港国際空港、1998年に移転のため廃止)拡張工事の材料とするため城壁が取り壊されました。
1940年代の中国内戦と、1949年の中国共産党率いる中華人民共和国の樹立により、
香港政庁の力が及ばないこの場所に中国大陸からの流民がなだれ込みバラックを建設、
その後スラム街として肥大化しました。
まさに香港らしい怪しくてごちゃごちゃで、暗くて、猥雑で野放図に建物が積み重なった活気ある街がここにあったわけです。
そこには無免許の歯科医院、コピー商品の製造工場、点心製造工場などがあったそうです。
取り壊される直前の1990年代初頭には、
200mx150mのわずかな土地に5万人近い人が住んでいて、
世界一の人口密度を誇っていました。
畳一枚で3人が暮らしていた計算になります。
そんな場所も1993年~94年にかけて取り壊され、跡形もなく消えてなくなりました。
街は綺麗になって、住み心地が良くなったんでしょう。
でも、人をワクワクさせるある種の強烈な魅力がぽっかり消えてしまいました。
残ったのは月並みな公園だけです。
過去をきれいさっぱり壊して消して、新しいものを立てていく。
これも香港。
でも、どんどん綺麗になっていく香港を観るのは、寂しい気がします。
貴重な観光資源を潰して潰して、それでも香港は発展し続けています。


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