The Delhi Club

香港に来たのは、海外で口座を作るためだ。
あるとき、同僚と資産運用の話をしていて、そいつが香港の銀行に口座を持っていることを知った。
投資なんかできなそうもない、鈍いそいつが意外と色々と手を出していることを知り、
少し焦った。
マイナンバー制度も始まり、これから個人の金がどのように国に管理されるかわからない。
妻とはうまくいってなかった。
別に、仲が悪いっていうわけじゃない。口論なんかもしない。
逆に、まともな会話もない。
結婚してからこの方、何か違うという違和感に苛まれ続けてきた。
このままこいつと一緒にいていいのか。
俺の人生はこれでいいのか。
こちらから申し込んで漕ぎつけた結婚だが、今ではただの重荷にしか感じていない。
まるで足に鎖をつけられている気分だ。
そして、奴隷のように働かされて、稼いだ金を使われる。
だから、自分の金を少しでもどこかに置いておきたかった。
どこか安全な場所に。
いや、離婚したいってわけじゃない。
でも、それが何か、心の安定をもたらしてくれる気がしたんだ。
ネットで情報を集め、香港で海外口座をつくる旅行ツアーがあることを知る。
英語が全然できない俺でもサポートしてくれるんだという。
何かに急き立てられるように申し込んだ。
そして、今ここにいる。
ツアーには、俺と似たような中年のおっさんやおばさんが参加していた。
中にはまだ二十代そこそこの若者もいる。
そんな年の時に、投資なんて考えたこともなかった。
金を貯めるまえにやるべきことがあるんじゃないか、と心の中でつぶやく。
添乗員に連れられて、HSBCの銀行へ。
事前に準備されていた資料と金を出し、
何だかわからないが、事前に用意されていた想定問答を回答すると、
意外とあっけなく口座を作ることができた。
これだったら自分でもできたんじゃないかと、ひとりごちる。
口座を作るだけじゃなく、自由時間もあって観光も可能。
広告に書いてあったその売り文句は、申し込むときは魅力的に見えたが、今となっては苦痛だ。
そもそも海外旅行なんて滅多にしたことないし、
香港に来たって一人で何をすればいいかわからない。
チムシャツイをぶらぶらしていていると、あるビルを見つけた。
チョンギンマンション。
ああ、これは知っている。
いつか読んだ小説に出てきたビルだ。
しかし、イメージしていたよりももっと新しく見えた。
再建されたのだろうか。
そのビルの前にはインド人が溜まっていた。
「カレー食べる?カレー食べる?」
「ゲストハウス?」
男が差し出すビラを手に取る。
客引きか。
すると一斉にインド人が俺の周りを取り囲む。
なにか考える間もないまま、半ば強引に一人のインド人に手引きされてビルの中に連れられて行く。
危ない目にあわなきゃいいが。
まあ、さっき金は預金したからいいか。
ここは香港だっていうのに、ビルの中はインドの香辛料の匂いが充満していた。
もちろん、断れないほど気が弱い俺じゃない。
腹が減っていたし、何か面白い経験ができそうな好奇心もあった。
エレベーターを待つ途中、インド人の男にカードを渡される。

VIPカード。
早速VIP待遇かよ。
エレベーターの乗り場にはディスプレイがあり、中の様子が映されている。
防犯対策だろう。
確かにこんなところのエレベーターに乗らなきゃいけないのは、男の俺でも勇気がいる。
連れていかれた3Fの場所はここだった。

THE DELHI CLUB。
意外とまともで逆に拍子抜けだ。
不思議な色の照明の内装は、決して汚くもなくどことなくお洒落な雰囲気すら漂わせている。

英語がわからない俺は、促されるままに料理を注文する。
店内はそれほど混んでいないが、一人で来ている奴は俺くらいしかいないな。
最初に出てきたこれはサモサだろうか。意外といける。

そしてナンとカレー。これもまた思ったよりも辛すぎず、日本人好みの味だ。
もしかしたら俺が日本人だからちょっと辛さ控えめにしてくれたのだろうか。

ビールを飲みながらカレーを食う。悪くない。
最後に出てきた、中にチーズの入ったナンがひどく旨かった。

追われるようにして、香港まで来て口座を作った。
しかし、俺はここで何をやっているんだろう。
いったい、何がしたいんだろう。
実は大して、投資するような金も持っていない。
少し前まで、借金をしていたくらいだ。
まだ、人生半ば。
これからまだやり直せる。
そう信じたい。
でも、いったい何をすればいいのか。
その問いでいつも終わり。
そこから先のことが、全く思い浮かばない。
ガキのころの俺は、親父みたいな平凡な人生をバカにして、
スパイスの効いた人生を生きると決心し、
そうできると信じて疑わなかったのに。
The Delhi Club – Openrice


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